
昭和の人気遊園地「谷津遊園」~アトラクションから海水浴場、バラ園まで
京成電鉄谷津駅より海側の一帯には、谷津干潟とバラ園に彩られた閑静な住宅街が広がっています。
ここにかつて、関東随一の遊園地があったのをご存じですか?
若い世代や新住民はその事実に驚き、当時を知る者は懐かしく思いを巡らせます。
その記憶の糸をたどってみましょう。
(写真提供/京成電鉄株式会社)
公開 2020/03/11(最終更新 2020/12/27)

かめ
伊豆出身、習志野市在住。 こたつ暮らしのリクガメ(80cm)、カメしか友達がいないダックスフント(肥満)、歌でテレビの邪魔するオカメインコ(レパートリー12曲) プラス人間の夫&子ども2人と暮らす、主婦兼ライター(20年目)。 半額シールがついているモノなら何でも買っちゃう病を治すのが当面の目標です。★Twitter★@momokinototoupa
記事一覧へデートも遠足も! その昔、休日のお出掛けといえば谷津遊園
1925年、塩田だった場所を埋め立てて京成遊園地が開園。
その後、谷津遊園と改称されました(戦時中のみ「谷津園」)。
▲昭和初期の谷津遊園入り口付近
▲昭和14年8月ごろの谷津遊園
谷津遊園は、いわば「遊びの総合商社」。
沿岸部の立地を生かした海水浴場、潮干狩り場をはじめ、1万8千株規模のバラ園に、読売巨人軍ゆかりの野球場。
100種500頭の本格的な動物園(数字は78年当時)。
大きなプールの中央にはなぜか、稲葉城(静岡県浜松市)の天守閣。
これと対なのかは不明ですが、ボート池のほとりには欧風のお城がそびえ立っていました。
その名も谷津ワンダーランド!
さらには遊覧飛行のためのヘリポートや、ここで50本もの映画を製作した阪東妻三郎の撮影所もあったのです。
▲谷津海水プール。背後に見えるのは楽天府(1939年)
▲広大な敷地にプールやバラ園などが
さまざまな施設が充実していた谷津遊園ですが、集客の要となっていたのは、やはり遊具でした。
日本初の360度宙返りコースター「コークスクリュー」には連日行列ができ、乗車まで3時間待ちの日もあったといいます。
コース全長670m、そのうち170mが海上を走るという斬新なコースター「サーフジェット」も人の絶えない人気アトラクション。
▲海の上を疾走!サーフジェット
▲海上に突き出たジェットコースターのコース
また、海抜50mの高さを誇る大観覧車は、当時の物としては国内最大級でした。
73年の京成電鉄社内報に「谷津遊園に来て大観覧車に乗らざるべからず」と書かれていることからも、これが谷津遊園のシンボル的存在だったことがうかがえます。
▲名物だった大観覧車
谷津遊園の忘れ形見記憶がよみがえる風景
▲谷津遊園行乗車証(昭和30年)
谷津遊園自体は黒字経営でしたが、運営する京成電鉄の事情により82年末での閉園が決まりました。
最後の2日間は無料開放され、大勢のファンに惜しまれつつ57年の歴史に幕を下ろしました。
東京ディズニーランド開園4カ月前のことです。
しかし、谷津遊園の忘れ形見は今もそこここに生きていました。
阪妻関東撮影所として使われていた楽天府(旧日本勧業銀行本店の建物)は千葉市に移築され、現在は千葉トヨペット本社社屋に。
コークスクリューは北海道のルスツリゾートに移設され、現役で活躍中です。
バラ園は習志野市が管理者となり、谷津バラ園として存続しています。
▲往時のバラ園
▲バラのアーチ(昭和中頃)
かの名作映画『男はつらいよ』第30作は、谷津遊園で撮影の一部が行われ、閉園直後に公開されました。
この作品を視聴すると、営業当時の園の風景を垣間見ることができるでしょう。
▲遠足の行き先としても定番でした(1936年ごろ)
大正、昭和を駆け抜けた古き良き時代のゴージャスな遊園地。
そこで生まれたものの一部が令和の未来まで続いているという事実…尊いと思いませんか?
時には小学校や公園、住宅地に姿を変えた緑豊かな跡地を散策しながら、谷津遊園に思いをはせてみてはいかがでしょうか。(カメ)