【私のちいき愛Vol.2】漫才師・ナイツ大人になって分かった千葉のいいところ
原点となった街やふるさとを著名人が振り返る「私のちいき愛」。
今回は「ヤホー漫才」で人気を博し、現在では漫才協会の副会長と常務理事を務める「浅草の星」ナイツ。
千葉に縁のあるお二人に当時の思い出をお聞きしました。
※こちらの記事は、「ちいき新聞」(一部エリアを除く)で掲載された記事を再編集してお届けします。
(撮影/小池彩子)
公開 2019/02/27
編集部 モティ
編集/ライター。千葉市生まれ、千葉市在住。甘い物とパンと漫画が大好き。土偶を愛でてます。私生活では5歳違いの姉妹育児に奮闘中。★Twitter★ https://twitter.com/NHeRl8rwLT1PRLB
記事一覧へ我孫子はとっても住みやすい町(塙さん) 船橋には大自然がありました(土屋さん)
取手までたどり着けたら一人前
塙さん:まあ、千葉というか、佐賀育ちなんですけどね。
土屋さん:それ、いつも言うよね。佐賀(についての取材)のときは千葉生まれって言って逃げる(笑)。
塙さん:小学校の途中で佐賀に越したから我孫子にいたのは10歳まで。
当時、同級生の間で「取手まで自転車で行けたら一人前」という共通認識があったのをよく覚えています。
国道6号をずーっと走って橋を渡ると、取手駅前の東急が見えるから、そこがゴール。
僕も挑戦したけど、途中で怖くなって引き返しちゃった。
自然に囲まれた少年時代
土屋さん:僕は豊島区で生まれて、2歳から中学(古和釜中)卒業までを船橋市で過ごしました。北習志野の辺りですね。
でも子どもだったから駅の方にはほとんど行かず、家の近くの山や林が主な遊び場。
たまに蛇が出ると僕の代わりに祖母が戦ってくれて(笑)。
空き地がいっぱいあったので野球もしましたね。
アクティブな祖母の剛速球を打つために一生懸命だった。
おばあちゃん子だったんです。
あとはアンデルセン公園のアスレチックに出掛けたり、梨園で味覚狩りをしたり…。
塙さん:アスレチックといえば久寺家の方にアスレチックがあって、そこの常連でした。
受付でゼッケンをもらって、ポイントを通過するとスタンプがもらえる。
ぼくは三人兄弟の一番下だったから、兄貴たちに追い付きたい一心で夢中でやってました。
土屋さん:ユーカリが丘に親戚の家があったのでそこにもよく行ってたな。
当時からモノレールが走っていておしゃれな町並みでしたね。
道中、八千代の牧場を通過するときに「くせえ!」って言いながら車の窓を開けてはしゃぐのもセットで。
大人になって分かった千葉のいいところ
塙さん:僕が育った「つくし野」は、区画整備された住宅街で、我孫子の中でも閑静な所。
病院や公園、大型のショッピングセンターとか生活に必要な施設が近くにあり、子どもが伸び伸び育つのにいい環境だなあと。
都心からもそんなに遠くないし。
土屋さん:僕は趣味が競馬なので、大人になった今よく行くのは中山と船橋。
どちらも場内の雰囲気が良くて大好きですね。
例えば、焼き鳥屋のお兄ちゃんがレバーばかり焼いてる。
なぜかというと、歯が悪いお年寄りが多いから軟らかいものがいいだろうって…。
優しさを感じますよね。
でも、千葉も行ったことのない場所がまだまだたくさんあります。
塙さん:ちょうど昨日、ロケで初めて東京ドイツ村に行きました。
そこでやっていたのが「大中国展(※)」。
土屋さん:ドイツじゃないのかよ!
塙さん:すごい攻めてる場所だなって。
千葉のことをもっともっと知りたい
塙さん:昨年6月に「我孫子市ふるさと大使」に任命いただき、1月から「東関東人図鑑」(J:COM)というローカルな番組も始まりました。
だから今は我孫子のことをもっと知りたいですね。
兄貴(※芸人のはなわさん)は佐賀、弟は我孫子をそれぞれアピールしていけたらと。
土屋さん:じゃあこれからも千葉を応援していこう!
塙さん:そこはごめんなさいで。
土屋さん:なんでだよ!(笑)
(※)…チャイナランタンフェスティバル
ナイツ
塙 宣之(はなわ のぶゆき) 1978年我孫子市生まれ。
土屋 伸之(つちや のぶゆき) 1978年東京都生まれ、船橋市育ち。
2001年、ボケの塙とツッコミの土屋で漫才コンビを結成。内海桂子の弟子として活動。
漫才協会、落語芸術協会、三遊亭小遊三一門として寄席でも活躍中。