1916(大正5)年木更津に生まれ、小学6年生の時、歌うことに興味を持った岡晴夫。
16歳で上京し、松坂屋などで働きながら、音楽塾で学びました。
公開 2020/10/09(最終更新 2022/03/09)
ショー
市川・船橋担当。主に市内の歴史、民話、建造物、イベント等の情報発信。個人的には1980年代より、東京・昭和初期の面影を撮影中。1989年銀座ニコンサロンで個展「都市観察―木造3階建てのまわりでは」、2010年オリンパスギャラリーで「トーキョー・人模様」
記事一覧へ働きながら歌を学び その後歌手デビュー
34(昭和9)年、作曲家を目指していた上原げんとと出会います。
二人は上野、浅草、銀座で流しをしながら音楽の勉強を続けました。
38(昭和13)年、二人はキングレコードのオーディションに合格。
岡晴夫は専属歌手になり、翌年「国境の春」でデビューします。
その後すぐに「上海の花売娘」「港シャンソン」とヒットを続け、スター歌手の道を歩んでいきました。
市川に移住後も大ヒット歌手として活躍
40(昭和15)年から市川八幡に居を構えています。
岡晴夫の大スター時代は戦後すぐに始まり、46(昭和21)年の「東京の花売娘」「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」などが立て続けに大ヒットしました。
全国を巡業すれば地方都市や田舎でも、岡晴夫のステージを見たい観客で会場はいつも超満員に。
どんなハードスケジュールでも常にファンを大切にしていた岡。
リーゼントの髪形、その美しい高音と明るい歌声で、戦前・戦後の日本に夢と希望を与えたのです。
市川市に住む岡の長女の方に、当時の思い出を聞きました。
「私が4歳ぐらいの頃、父が地方巡業から帰ってくるのは、いつも朝一番東京駅着の夜行列車。明け方、母と一緒に迎えに行きました。楽団員らでごった返すホームで私たちを見つけると、父は駆け寄って真っ先に私を抱き上げてくれました」
歌に生きた岡晴夫は70(昭和45)年、市川八幡で54歳の生涯を閉じました。
77(昭和52)年、日本歌謡界における功績をたたえ、岡晴夫を偲ぶ会によって葛飾八幡宮境内に「岡晴夫顕彰碑」が建立されました。
取材協力/一般社団法人 日本歌手協会、岡晴夫を偲ぶ会、葛飾八幡宮