生命感みなぎる、躍動する作品をつくりたい!八千代市の彫刻家・田島享央己さんの世界

八千代市の彫刻家・田島享央己さんの世界

千葉県八千代市内にアトリエを構える彫刻家・田島享央己さん。

仏師の流れをくむ彫刻一家の5代目として生まれた田島さんは、パンダや豆腐、ちくわ、素麺など、意外なモチーフを彫刻にし、国内外で人気を集めています。

また、ソフトビニールトイ作品の「鶴のポーズをする猫・ブルーアイ」が八千代市のふるさと納税の返礼品に選ばれるなど、その作品はさまざまな形で注目を浴びています。

田島さんは一体どのようにして、このようなかわいらしくファニーな作風にたどり着いたのでしょうか。どのような思いで作品づくりに取り組んでいるのでしょうか。

膨大な彫刻道具に囲まれたアトリエにお邪魔して、ざっくばらんに伺ってきました。

<目次>

・表現したいのは“生き生き”した感じ

・“コンクール荒らし”から彫刻家の道へ

・無意識のレベルまでつくり込む

・もっともっと上手くなりたい

公開 2020/09/04

編集部

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千葉・埼玉県在住の編集メンバーが、地域に密着して取材・執筆・編集しています。明日が楽しくなる“千葉・埼玉情報”をお届けします!!

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表現したいのは“生き生き”した感じ

八千代市の彫刻家・田島享央己さんの世界

――ズバリ、田島さんにとって彫刻とは何でしょうか。

田島 彫刻が本当に好きで、何かをつくっていないと身がもたない。具合が悪くなってしまうんですよね。できることならアトリエにずっとこもって作品をつくり続けていたい。大好きな彫刻をずっとやっていたいんです。ただ、自分の作品に満足したことは一度もありません。作品をつくりあげるたびに、残念な気持ちが心の片隅に残っているんですよね。

 

――それはなぜでしょうか。

田島 私が彫刻を通じて表現したいのは、人やモノが持っている“生き生き”した感じ。この一点に尽きるんです。モチーフが人体だろうが動物だろうが、あるいはモノだろうが、この点に変わりはありません。作品が完成したときに残念な気分になるというのは、自分が思い描いているほどの“生き生き”した感じ、作品そのものがうごめき、今にも動きだすかのような生命感を表現するに至っていないからだと思います。まだまだ修行ですね。

 ちょっとスピリチュアルに聞こえるかもしれませんが、作品をつくる過程で彫刻に生命が宿り、スーッと呼吸をするように見える瞬間があるんです。夢中になって制作に取り組んでいるうちに“ゾーン”に入り、何かを錯覚してしまうということだと思うのですが、この瞬間が楽しくてたまらないんです。しかも、上達すればするほど、この快感はどんどん増幅していきます。だからこそ、たゆみなく試行錯誤を重ね、もっともっと上を目指したくなるんです。ま、ある種の変態といわれても、否定はできませんよね(笑)。

 

――ほかの彫刻家の作品を見て、すごいなとか、見えているものが違うなと感じることはありますか?

田島 もちろんありますよ。ほんとうにスゴイと思うのは運慶ですね。例えば、奈良・興福寺の北円堂に安置されている秘仏「木造無著・世親立像」を間近に見れば、誰もが衝撃を受けるはずです。鎌倉時代の作品だというのに生命感が漲っていて、息づかいさえ聞こえてくるという人も少なくないのではないでしょうか。

 運慶は日本の彫刻史に燦然と輝く大天才ですが、彼だって私たちと同様、“生命感”“生き生き”した感じを何とかして表現すべく苦闘を続けた“試行錯誤おじさん”ではなかったかと思うんです。実際、「木造無著・世親立像」には、運慶が手の角度を何度も変えた形跡が残されています。そんなことを考えていると、約800年前の仏師・運慶が、私のすぐ隣にいる同志のように思われてならないんですよね。

 

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“コンクール荒らし”から彫刻家の道へ

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――彫刻家の道を歩まれることを決めたきっかけについて聞かせてください。

田島 「彫刻家になる」――。そう心に決めたのは高校3年生の夏、美大に進学するための勉強を本格的にスタートさせた頃です。もっとも幼稚園の文集には「将来は彫刻家になりたい」と書いていましたし、幼い頃から絵を描いたり、工作でモノをつくったりするのは大好きでした。とりわけ小学生の頃はありとあらゆるコンクールに応募して、毎週のように賞状をもらうなど、“コンクール荒らし”として鳴らしていたんですよ。夏休みの工作では、巨大な木製の飛行機とか、今思えば同級生が引いてしまうようなレベルの作品をつくっていましたね。

 

――高校卒業後は千葉を離れ、愛知県立芸術大学に進まれたそうですね。どのような大学生活を送られたのでしょう。

田島 自然を描写する力をつけるために、ヌードモデルを使って等身大の塑像制作にひたすら打ち込みました。木彫にも抽象彫刻にも一切手をつけず、職人的な具象彫刻に朝から晩まで取り組んでいたんです。私は大学入学当初から「誰もが知っている、世界的な彫刻家になる」というビジョンを描いていました。その実現にむけて、学生時代にしかできないことを精一杯やろうと。基礎を徹底的に固めようと思ったんです。

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――木彫に本格的に取り組みはじめたのは、大学を卒業されてからということですね。

田島 ええ。大学卒業後もアルバイトをしながら制作を続けていたのですが、お金がないのでヌードモデルは使えませんし、石膏取りをする余裕もない。そんなこんなで木彫をやるほかなかったんですね。幸い実家には木彫の道具が山ほどありましたし、やってみたら本当に楽しくて、どこかしっくりくる感触がありました。やはり彫刻家の血を受け継いでいたということなのだと思います。

 

――田島さんの作品といえば、かわいらしい動物の彫刻が有名です。どのような経緯でこうした作風に至ったのでしょう。

田島 駆け出しの頃は結構トガってまして、ヘンリー・ムーアのような抽象彫刻をつくっていたんです。いま振り返ると小難しいことをして、自己満足に浸っていたわけですが、その一方で、社会との接点をなくして八方塞がりになってはいけない、自分のやりたいことだけをやって歳をとっていくのはカッコ悪いことなんだという思いもありました。そこで、展覧会に出展するたびにお客さんの声に耳を傾け、試行錯誤を繰り返すことで、自分のつくりたいものと世間が求めているものを、少しずつ擦り合わせていったんです。

 作品が売れるようになったのは、40歳前後でした。作品をつくるのは大好きですから、ツラいとか、やめたいと思ったことは一度もありませんが、同級生が出世したり、マイホームを購入したりするなかで、アルバイトで食いつないでいるという状況にはほんとうに心苦しいものがありました。そこは歯を食いしばって頑張りましたよね。

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――田島さんの作品のなかには、パンダや豆腐、ちくわ、素麺などファニーなモチーフを扱ったものもたくさんあります。なぜ、こうした作品をつくろうと思ったのでしょうか。

田島 一言でいえば、木彫でふざけたモチーフを手掛けている人がいなかったからです。当時はまだ“木彫はシリアスであるべし”という風潮が残っていたんですね。でも、逆方向に走らないと、一等賞はなかなか取れません。だから、敢えてタブーを破り、空いているスペースに走り込んでみることにしたのです。人々を振り向かせるのは大変でしたが、一度振り向かせることができれば、この分野ではぶっちぎりの一位です。こういう作品も受けるんだという学びもありました。

 

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無意識のレベルまでつくり込む

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――木彫制作の大まかな流れについて教えてください。

田島 まずはモチーフを決め、紙にデッサンをした後、正面と横の二方向から木にデッサンをしていきます。その後、ノコギリを使って大まかな形を切り出す「木取り」というプロセスを経て、のみや彫刻刀で少しずつ彫っていく。彫りが終わったら着色を行い、仕上げをしたら完成です。作品にもよりますが、1体完成させるのに1カ月ほどかかりますね。

 

――彫刻というと、彫るプロセスに注目しがちですが、デッサンも大切なのですね。

田島 ええ。デッサンというのは、単なる絵の練習ではなく、イメージ通りに手を動かせるようにするための重要な訓練なんですね。眼にモノサシを入れるようにして、自分の見ていることと寸分のズレもないように描く練習をすることで、脳と手を結ぶ神経が太くなり、情報伝達量も増えていく。練習を積み重ねるうちに、手を思い通りに動かせるようになるんですね。ちなみに、名人の域に到達すれば、物事を“抱きかかえる”ような感じで見られるようになるといわれています。視野が深くなることで、見える世界も変わってくるということですね。

 

――彫りの過程では、じつにさまざまな道具を使われるのですね。

田島 例えば、これは代々続く鍛治職人の初代小信さんの手による約100年前の彫刻刀で、祖父の代から使い続けています。こちらは鍛冶屋界の神のような存在である千代鶴是秀がつくった鑿、そちらは日本一の鑿鍛治名人と称された清忠の鑿で、いずれも博物館に収蔵するレベルの作品です。

 これらを手放すことができないのは、やはり切れ味が違うからですね。豆腐を切っているような感覚のものから、チーズを切っているような感覚のものまで、一本一本味わいが違うのですが、イメージ通りに切ることができる。また、一度研げば、その日一日は研ぎ直しをすることなく、効率よく仕事ができます。おそらく鍛造の温度から、0.1秒単位の焼き入れのタイミングに至るまで、すべてが絶妙なのでしょう。彫刻をやればやるほど、こうした道具の奥深さがわかってくるんです。本当にたまりませんよね。彫刻刀を肴にすれば、5時間くらいは平気で呑んでいられますよ。

 

――着色について聞かせてください。パンダの木彫を制作する過程では、黄色や緑、赤、青、紫、オレンジなど、パッと見るだけでは気づかないような色までたくさん塗られていると伺います。これほど多くの色を重ね塗りされるのはなぜでしょう。

田島 人間は無意識のうちに、さまざまな色の違いを感じているものなんです。例えば、どんなに美術に疎い人だって、スーパーに行けば生命感みなぎる、みずみずしいトマトを手に取るでしょう。本人はまったく気づいていない、かすかな色の違いを無意識のうちに感知して、いいトマトを選んでいるわけですね。それと同じで、彫刻に生命感を宿すためには、見ている人の意識にはまったく上らないような色まで塗りこまなくてはいけないんです。そのわずかな差で、作品の良し悪しが大きく変わってくるんですよ。

 

――作品の完成のタイミングは、どのようにして見極めていらっしゃいますか。

田島 そこは非常にシンプルで、次の作品のことを考えたときが完成です。次の作品を考えるということは、現在手掛けている作品に対する興味がなくなっていることの証であり、自分の心が動いていないということでもある。そんな状態でこねくり回しても、よりよい作品ができるはずがありません。

 単純な話、プロであれアマチュアであれ、芸術作品というのは楽しいからつくるものでしょう。作り手の心が躍動し、この上なくうれしい状態でなければ、モノをつくってはいけないんです。絵を描いたり、モノをつくったりするのは、原初的な喜びに満ちた行為だし、そうあるべきだと思っています。

 

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もっともっと上手くなりたい

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――今後の目標について聞かせてください。

田島 もっともっと多くの人々に作品を見てもらい、ニコッとしてもらえたらうれしいですね。2020年1月に米国ニューヨークで個展を開催したのですが、現地の人々からは「オモシロイ」「カワイイ」と、とてもいい反応をいただきました。文化や習慣は違えど、同じ人間ですから、彫刻のもつ“生き生き”とした感じは伝わるんですよね。海外でも十分イケると思っています。

 

――「こういうものをつくりたい」という思いはありますか。

田島 アイデアは一生かかっても実現できないくらいたくさんありますが、それより何より、もっともっと上手くなりたい。具体的な技術については、ある程度やれば誰でも習得できます。私が目指しているのは、運慶たちが創りあげてきた、その先の世界です。生命感に満ち満ちた、生き生きとした彫刻をつくれるようになるまで、一生修行ですよ。

 

彫刻家・田島享央己(たじまたかおき)

1973年千葉県八千代市生まれ。2000年愛知県立芸術大学美術学部彫刻科卒業。

主な展覧会歴は、2017年「 MITSUKOSHI ART CUBE 」/日本橋三越本店、2018年 「田島享央己木彫展 ―花も嵐もお彫刻―」/日本橋三越本店、2019年「田島享央己木彫展~彼は何故これを彫ったのか?~」/代官山蔦屋書店、2020年「田島享央己木彫展~An amusing world of little wooden creatures」/The Nippon Club, Inc. ニューヨーク、One Art Taipei 2020/The Sherwood Taipei台北、VOLTA Art Fair New York/Metropolitan West ニューヨーク

2019年 河出書房新社より作品集「シドロモドロ工作所のはじめてのお彫刻教室」を上梓。新制作協会会員。

取扱い画廊 gallery UG

 

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