江戸時代・領民の窮状を徳川将軍に直訴した罪で処刑された「佐倉宗吾」。
その霊を祭る宗吾霊堂は宗吾の威徳をしのぶ参拝客が後を絶ちません。
公開 2020/06/09(最終更新 2023/02/03)
ソバ
大手新聞社の記者を続け、定年延長も終わったので、地域の話題を取材したいと、地域新聞様にお世話になっています。明るく、楽しく、為になる話題を少しでも分りやすく紹介したいとネタ探しの日々です。子どもの頃から麺類が好きなのでペンネームにしました。
記事一覧へ佐倉藩国家老の暴政と重税を訴え極刑に
通りから宗吾霊堂へ入ると右手に、宗吾と宗吾の子どもたちの立派なお墓が目に入ります。灯籠が左右にあり、その奥に石塔が立ちます。
周囲は木々に覆われ、厳粛な空気が漂います。
宗吾は日本を代表する義民の一人として知られ、歌舞伎や講談などでも取り上げられています。
江戸時代、寛永より承応年間にわたり佐倉藩国家老の暴政と極度の重税から領民は苦しみ、他国への逃亡が続出し、百姓一揆も起きました。
その窮状を見かねた割元名主の木内惣五郎(後の佐倉宗吾)が承応元(1652)年、徳川家の四代将軍家綱に直訴すると、これが認められ、圧政は改善されました。
しかし、直訴の罪で木内惣五郎は磔(はりつけ)の刑、子ども4人は打ち首となってしまいました…。
お墓には父子が合葬されており、訪れる人は両手を合わせ、頭を垂れています。
直訴の罪は重かったのですが、佐倉藩は失政を悔いて、約100年後の宝暦2(1752)年に当時の佐倉藩主堀田正亮が、「宗吾道閑居士」の法号を贈りました。
大本堂では宗吾の霊を祭っています。明治43(1910)年に焼失し、大正10(1921)年に再建され、重厚な建物となっています。
等身大の人形66体 宗吾の生涯を紹介
宗吾の偉業をしのぶことができる施設が大本堂奥にある宗吾御一代記館です。
場面ごとに66体の等身大の人形が配置され、波瀾万丈の生涯を説明しています。
江戸にいた宗吾が妻子に別れを告げるため自宅に戻る際、印旛沼の渡し守の甚兵衛の助けで小舟に乗せてもらった「甚兵衛の渡し」。
雪の中、宗吾が自宅を離れる「妻子の別れ」。
そして、直訴、処刑と続いていきます。
人物の表情が豊かで、訴える力があり、感動的です。
宗吾霊堂の片寄照文寺務長は「自分の身を犠牲にしても苦しんでいる人たちを救った行動は尊い。多くの方たちに知ってほしい」と話します。
宗吾霊堂(正式名称:真言宗豊山派鳴鐘山医王院東勝寺)
住所/千葉県成田市宗吾1-558
宗吾御一代記館
入場料/大人700円、小・中学生/400円